やきものばなし

吉向松月窯の歴史について綴ったコラム「やきものばなし」
機関紙「土の子」に掲載しているもののバックナンバーです。

吉向の初代は戸田治兵衛といい、愛媛の大洲藩の浪人、戸田源兵衛の息子として天明四年に生まれました。
初代の父・戸田源兵衛は、四国大洲藩の役人でしたが、若年より武道をよくし、大洲藩士永原十太夫高穀より居合極意をうけ、藩士に居合を指導するような人であったようです。
源兵衛はのちに、姉婿である帯屋武兵衛を頼って伊予上灘へ行きます。
帯屋家は土器職でかわらけなどの焼締めの器などを作っていたようで、源兵衛も武術修行の傍ら作陶を始めます。
叔父と父が作陶に携わる環境の中で、初代は育つことになります。享和元年、治兵衛は京都に焼き物の修行に出ます。
当時の京都は、初代清水六兵衛が五条坂に築窯し、道八が活躍、樂家では了入の時代でした。
治兵衛はそれらの三人の窯で修行をし、指導を受けたと言われています。また、父蕃斎が調べた「窯煙」によりますと、八幡の南山焼、浅井周斎にも就いたと言われています。
武士の出であるということが、当時の名工たちに就いて作陶の修行をする助けになったと思われます。

一八〇四年(享和元年)治兵衛は祇園の舞妓さとを妻に迎え、摂津国西成郡中津川古堤新田(十三村)に窯を築きました。
この地は妻さとの実家の近くで、街道の古寺を借り、十三焼と称して作陶をはじめました。
当時の鈴木町代官、岸本武太夫という人に引き立てられ、楽風の独特な色釉の焼き物、茶道の黒楽、赤楽の茶碗など武家好みの焼き物を作りました。
老松の間から生駒の山に出る月をめで、「松月」と名乗り、「十三軒松月」を号としました。
陶業が軌道に乗ると、父源兵衛と母親を十三に呼び寄せました。その後、治兵衛夫婦には子がなかったので、四国の郷里上灘より姉の子(幼名鶴之助)與右衛門を養子としました。その折、従弟亀次を呼び寄せ、後見として陶業を手伝わせました。従弟の帯屋亀次は陶業をよくする人だったのでしょう。のちに大阪での焼き物をうけつぎました。

 ◇

令和二年一月一日の新聞各紙の天皇家御一家の御写真が掲載されました。
その御写真のご一家のお手元に父蕃斎の六十年前の干支の作品が写っていました。
「ぶりぶり」と言われる玩具に白鼠が乗っている意匠で、当時の秩父宮家にお納めしたものです。
誠に名誉なことと喜んでおります。当窯では、毎年年末に翌年の干支作品を宮家にお届けしてきました。
近年は秋篠宮家にお持ちしています。


大洲から戻った治兵衛はしばらく十三村で作陶を続けていましたが、天保五年、岩国藩から藩窯復興のために招聘されました。
当時、岩国藩では財政の危機を脱するため、塩浜の開作や蝋板場(菜種油のしぼり場)の増設、棉用場の開設など様々な財政改革が行われていました。
岩国藩ではそれ以前より藩窯として多田村に窯を築いており(多田焼)、その産品は幕府の要職への贈答品としても使われていましたが、文政年間には多田焼は衰退していたようです。
天保五年(一八三四)、幕府御用の焼物焼成のため、多田焼の復興が試みられましたが、うまくいかなかったので、吉向を岩国藩に招聘することになりました。
川西の道(どう)祖崎(そのさき)の谷間に窯を築き、翌六年の末までの二年間、焼成させました。藩費による藩窯として運営され、従来どおり茶道方も参加して、茶碗を主として制作しておりました。制作した製品は、従前の多田焼きとは異なり、色彩豊かな軟陶の茶道具で、献上用、進物用に用いられました。
天保七年春、藩主経礼公が亡くなり、治兵衛は一旦帰阪しましたが、夏には再び岩国に戻り、川西の窯を借用して、今度は私費で焼成を再開しています。
表向きは個人的営業ということになっていますが、実際はまだまだ藩窯に吉向の力が必要とされていたのだと思われます。この時期に制作された次兵衛の作品は岩国山焼と呼ばれ、吉向の銘が入っています。
造形、色彩ともに優れた吉向の作品は、将軍家から金印銀印を拝領して以来、名声を高めつつありました。
近年、ボストン美術館で、吉向の作品が多数所蔵されていることがわかりました。その多くが治兵衛の岩国時代の作品であったことからも、充実した作陶活動が行われていたことが伺われます。
平成三十年、岩国市の美術館、五橋文庫で開かれた「岩国藩の御用窯 多田焼展」を訪問し、治兵衛の作品に出会うことができました。

天保九年、次兵衛は岩国を去りますが、すぐには大阪へは戻らず、長崎へと向かっています。この長崎行の顛末は何の記録も伝承も残っておらず、謎に包まれています。あるいは海外からの舶来品が流通していた長崎の地で、呉須や顔料などの貴重な釉薬などの資材を調達するために立ち寄って来たのかもしれません。


岩国徴古館が昭和四十四年に刊行した岩国藩の焼き物に関する資料の中に、藩の「御用所日記」の記述があり、天保五年から天保九年までの吉向治兵衛の活動記録が残っています。

大阪焼物師吉向治兵衛、(中略)献上支度段願出候、左に 一、黒茶碗 壱 一、赤穂屋蓋置 壱 一、黄杓立 壱 一、麦馬水指 壱 一、青鳳凰風炉 壱

との記載がありました。
また「算用所日帳」という資料には、治兵衛が岩国を離れ、長崎に出向いたという記述も残っています。

「天保九年七月四日 吉向治兵衛事、此度長崎え罷越候に付ては、荷物下方に付,今津川え勘過之儀願出候由にて、御客屋より以手紙申出候付、遂沙汰格別無之に付、勘過手形相調、御客屋へ為持遣候事 但、十五箇有之段申出候也」

この長崎の帰りに治兵衛は故郷の大洲にも立ち寄っています。
この時に土器職の倅、甥の與右衛門を大坂に連れて帰っているのではないかと思われます。大坂に戻った治兵衛は、従弟の亀治と甥の與右衛門(号南城)とで仕事に従事していましたが、この年に亀治が大坂靭永代橋に別窯を築いています。仕事が手広くなって工房が手狭になったのかもしれません。
翌年大和小泉の城主である片桐貞信公が参勤交代で江戸に参府することになり、治兵衛は十人扶持で召し抱えられ、大坂を離れることになりました。
亀治と與右衛門に大坂の窯を任せ、治兵衛は片桐貞信公の江戸屋敷でお庭焼きを行います。(文京区本郷あたり、小泉藩下屋敷ではではないかと思われる。向島の説もあり)
片桐貞信公は文政十三年大番頭を辞職し、遜斎と号して茶人となり、才に恵まれて将軍家茶道指南役となり、のち石州流中興の祖と称される人になりました。
吉向治兵衛は遜斎公の江戸屋敷に窯を築いて、茶道具や贈答の品などの制作に携わりました。
そのころ日本各地では「国焼き」(瀬戸以外で焼かれた茶陶)が各地で起こっており、殖産や産業振興のため国焼きを各大名が推奨しました、その中でもお庭焼きは大名が私的楽しみの茶の湯に用いるために自らの好みや用途に応じて作らせた焼き物として大名のあいだで盛んに起こりました。
江戸での吉向焼きは石州公以外でもたいそう気に入られ水戸藩江戸小石川後楽園のお庭焼きにも招聘されたようです。
今後、どの様な大名とお付き合いがあったのか、作品が表にでてくることで、新しい発見があるかもしれません。


天保十年(一八三九)治兵衛が五十六才の時、片桐貞信公の江戸屋敷に伺候しました。
大阪の窯を妻と亀治と與衛門にまかせ、単身江戸に向かいました。
治兵衛は、新天地で貞信候から十人扶持を与えられ、士分の扱いを受けています。向島に窯を開き、藩侯の茶道の好みものや各大名への進物の品などを制作しました。
子どもがいなかった治兵衛は、おそらくは貞信公の仲介により旗本の次男、一朗高義と養子縁組をしています(その姓氏が伝わっていません)。後に跡継ぎとして仕事を手伝います。

弘化元年(一八四四)、治兵衛は江戸で還暦を迎えました。松月の号を改め、行阿としました。大坂で妻おさとを亡くしていましたので、行阿という僧の名前を付けたのでした。妻の菩提を弔う心であったのでしょう。
かねてから諸大名間に名声の高かった吉向行阿に白羽の矢を立て、指導者として藩に招こうとしていた大名がありました。信州須坂蕃第十一代藩主堀直格候です。
須坂蕃は長年続いている財政難を打開する為に陶業を興し、製品を藩の専売にし、財政収入の増加を図ろうと計画していました。一万石の小藩である須坂蕃としては一大決断であったと思われます。
はじめ、行阿は須坂行きをなかなか承知しませんでしたが、須坂藩当主、堀直格候が熱心に手を尽くした結果、片桐貞信候の内諾を得たので行阿もついに承諾しました。開窯が出来るかどうかを下調査のために、天保十五年(一八四四)八月二十五日、中山道を通って須坂を訪れました。
行阿は裏穀町田中家に九月二十日まで滞在し、藩内の土質や開窯候補地などを調べました。そして鎌田山東南山麓の大和合の地を窯場に選びました。行阿の滞在中に須坂藩は役人を使って領内各地の土を集めさせ、行阿はこの土を使って東谷の瓦窯で試し焼きをし、茶入れを主とした数十個の見事な焼き物を作りました。藩は急飛脚によってこれを江戸の藩主直格に届けました、この作品を見て須坂藩は陶業を興す決心をしたと言われています。
行阿は開窯準備の為、一旦江戸へ戻りました。翌弘化二年(一八四五)二月、藩主直格候は隠居して第十二代直武が相続し、国許家老は丸山舎人となったが、行阿を招く意向はそのまま受け継がれました。そこで早春三月、京都から職人十一人を集めて行阿は馬に乗り須坂にやってきました。須坂藩は高梨まで役人を出迎えさせ、花火を打ち上げて歓迎したと言われています。養子吉向一朗高義も少し遅れましたが須坂に向かいました。藩は行阿に十人扶持と金七両二分(御広間格)、一朗に五石五人扶持(御徒士格)を与えて待遇しました。片桐貞信候より十人扶持(士分扱い)以上を与え、行阿に対しての期待の大きさが分かると思います。そして家老の丸山舎人を陶器奉行に居え、郡奉行の土屋修蔵を陶器懸かりに任命し、陶器所を設置しました。



本年十月、新しく開かれた枚方市総合文化芸術センターのギャラリーにて「吉向松月窯のあゆみ展」を開かせていただきました。初代の足跡として須坂時代の作品も出品いたしました。大勢の方々が来られ好評を博しました。
また、須坂市は初代の作品三十六点を有形文化財に追加指定しました。
香炉、食籠、酒器、水次、水指、皿、鉢、向付、文献などです。須坂では、吉向焼を郷土の焼き物として大切に扱われていることを嬉しく思います。


弘化二年(一八四五年)、吉向行阿が須坂藩の依頼による陶器所を築窯した頃、大坂では甥の與右衛門と従弟の亀治が製陶に励んでいました。
行阿の残した作陶の技術は受け継がれ、茶器や食籠などは行阿の写しを吉向焼として作り、大名や茶人などの数寄者などに収めていました。私どもの窯では、二代を亀治、三代を與右衛門としていますが、同時期に大坂と須坂で製作していたことになります。
作品の作者を見極める時、その印や作風から判定しますが、現在初代作とされている作品の中には與右衛門の大坂作品が含まれているように思われます。與右衛門作といわれる香炉に拝領印である小判印が押されていました。初代の二つの拝領印のうちの一つは大坂に残されたのかもしれません。
焼き物師は窯で使用する印も一つではなく拝領によるものまた作品の大きさなどで変えることがあり、又還暦などの節目での使用もあります。いずれにしても初代時代の作品は初代の名声と共に二代、三代の作品も多くの数寄者に渡っていったのでしょう。
またこのころから日本の国は外国から開国をせまられるようになり、幕府や藩の情勢も大きく変わり始めます。

さて、本年、裏千家の茶道資料館にて「やきもの巡り、大阪・兵庫編」の展覧会が開催されていました。(令和四年一月七日から四月十日まで)
その中に初代の作品で亀の置物(大坂十三窯 大阪府有形文化財)、須坂窯の赤楽茶碗、四代の紫釉土風炉(大坂十三窯)、などが出品されていました。またこの展覧会には、大坂に於いて私どもよりさらに古い窯で、今はもう無くなってしまっている窯元の焼き物も展示されていました。
高原焼(桃山~江戸初期、天王寺小橋町)、難波焼(承応年間 中央区高津)、谷焼(堺)、湊焼(堺)、古曽部焼(高槻古曽部)高槻焼(永楽保全)、大河内焼(永楽和全 寝屋川)、桜井里焼(島本町)など、ほとんどは京焼の流れを汲む茶陶のやきものです。
徳川の時代の終焉と共に、お庭焼の窯は少なくなっていきました。

※資料許可=茶道資料館(京都堀川寺ノ内)
引用=神戸松蔭女子学院大学教授 守屋雅史氏による資料


今まで吉向の初代からの足跡を書いてきましたが、ここで一度、当窯の技術的な話をしてみたいと思います。
先日、地元交野市の文化財室の方々が、調査のために来窯されました。現在の窯元での作業工程をはじめ、窯元に残る歴代の作品や資料、古文書などをご覧になり、薪窯での焼成にもご参加いただきました。
また、調査の一環として立命館大学の木立雅朗教授がお越しになり、電気窯、薪窯、黒楽窯などをご案内させていただきました。
現在、窯元では大部分の作品の焼成を電気窯で行っていますが、楽茶碗の焼成に関しては昔ながらの窯を復元した薪窯で行います。
赤楽を焼成する薪窯は、「桶窯」と言われる筒状の窯で薪と炭を使って焼成します。
毎年、窯変赤楽の素焼きのために使用しており、窯焚きの折には薪窯見学会を開催して広く一般の方々に公開しております。

木立先生は、特に桶窯に関心を持たれ、古い時代の形態を残しながら現在の部材で修復・維持され、実際に稼働している窯は希少であるとして、歴史的な文化遺産だと高く評価していただきました。さらに、この桶窯の窯焚きの過程を一般にご覧いただく公開していることについても「全国的にも唯一ではないか」とご評価いただきました。
また、父七世松月とともに復元を始め現在も黒楽茶碗の焼成の研究を続けている黒楽窯についても、その熱源として使用しているフイゴの歴史的価値についても興味を持っていただきました。
この度の調査の詳細な内容は、交野市文化財だより第33号(2022年3月31日発行)に寄稿されました。
日常の制作に守り続けてきた薪窯が、全国的にも希少な文化遺産であると認めていただけたことは、私たちにとって大きな驚きでもあり、誇らしい思いがいたしました。

交野市文化財室の調査は、指定文化財を視野に続けていただけることになっています。また、大阪府の文化財課も興味をお持ちいただき、今後調査の対象となるようです。
私どもの窯の歴史や技術が専門家の方々のご指導を得て、体系的な文化伝承として多くの方に知っていただけることは、本当に有難いことだと思います。


前回は窯の技術的な話に触れましたが、今回は初代が晩年に信州須坂藩主堀直格のもとで築いた窯のお話の続きをしたいと思います。

当時、須坂藩は長年の財政難を打開すべく産業開発の必要に迫られ、陶業の開発を始めようと考えていました。
そこで江戸で名声を博していた吉向に白羽の矢を立て、指導者として須坂藩に招くことになりました。

吉向行阿は江戸の片桐石州候の元を離れ、焼き物の調査に須坂に訪れ、陶業が可能か試し焼きを行いました。最初に築いた窯は思わしくなく、苦労しましたが、この地を気に入り窯を起こすことを決心しました。
藩は三か月もかけて最初の窯より西の方に、山道を広げ、警固所、土置き場、仕事場を作り新しい窯も作りました。江戸におられる藩主は家老丸山舎人に窯の名をまかせ、「紅翠軒」と命名しました。藩は家老の丸山舎人に陶器奉行を与え、郡奉行の土屋修蔵を陶器係に任命して陶器所を設置し、大掛かりな登り窯を築くことになりました。
登り窯は斜面を利用して倒炎式の窯室を幾つもつなげ高温に上げる窯です。吉向行阿は京都で十一人のろくろ師や窯の職人や絵付師を集め、須坂に呼び寄せました。大和合の鎌田山の発掘調査で十登りの大きな窯があったことが分かっています。
磁器の窯も築かれました。弘化二年製として磁器の瓶子と精華桐花水指が初窯で焼かれた記述があります。
当初陶土は藩の各地、天徳寺、日滝、錦内などの各地から探し、作品によっては、京都、瀬戸、武州からも取り寄せたようです。藩は窯場の鎮守として火神、土神、水神の三社宮で勧請までしています。藩の力の入れようが伺われます。
初代の残っている作品を見ると、楽の茶陶にとどまらず中国趣味などの精華の写し、煎茶道具など多岐にわたり、京の最新の技術を伝えていこうとしていたことがわかります。
初代行阿は茶陶を得意とし、弟子十一人とともに数々の作品を作りました、また養子一朗を跡を継がせ二代目としています。一朗との合作として白楽金彩菊花大皿が残っています。
藩侯は信州の地に文化、芸術を根付かせたいと思っていたのでしょう。また一方で財政立て直しのために善光寺の御開帳に合わせて香炉の量産を吉向に依頼したりしています。

本年(二〇二二)十月に、須坂市の傘鉾会館で「吉向行阿の残したもの」という展示会が開催されました。弟子たちが後をついだ藤沢焼や須坂焼きなどの磁器作品も展示されて初代の功績が伺われました。

※参考文献 須坂藩吉向焼きのあゆみ
須坂市経済部
吉向焼須坂開窯一五〇年記念
お庭焼き吉向初代展
須坂市立博物館


今回は、吉向行阿が須坂の地でどのような陶器を制作してきたのか、現在残っている作品を考察してみたいと思います。

田中本家博物館には、須坂藩主堀直格の下、当時使われた焼き物が所蔵されています。それは、茶道具ばかりではなく、多くの食器類が残されています。懐石料理のお皿や大皿、蓋物、鉢、猪口など、その多くは伊万里焼や瀬戸、京焼(乾山)のもので、なかには景徳鎮の器もあります。殿様が付き合いのある豪族たちや家臣などへのもてなしの器として使われたものと思われます。
その当時作られた吉向の作品は楽焼で、茶道具が中心です。茶碗(黒楽、赤楽)、食籠、水指、風炉,菓子鉢 絵皿など茶会で使われるものが多いです。また登り窯を使って磁器制作の仕事もしています。
また、その当時の殿様は煎茶道も嗜まれていたようで、煎茶茶碗や涼炉、湯かん(湯を沸かす土瓶、)急須、茶壷なども残っています。変わったものとしては、西瓜の種入れやあんかのような暖房器具などもあり、本当に多岐にわたっています。
同じ形の作品も量産も行われており、ろくろ制作の器や型物の食籠や香合などの蓋物などもありました。販売の他、お付き合いの関係で多くの進物に必要だったと思われます。
行阿は須坂の地で才能を発揮し優れた作品を多く残しました。また弟子十一人とともに登り窯を使い、量産体制に入りました。磁器の染付などです。

量産された焼き物にはろくろ作りの他、行阿の得意とする型物作品があります。
まず原型を作り、それを焼いてその上に土をのせ雌型にします。それを焼いて土型を作ります。とても手間のかかる仕事をしていたようです。
香合なども同じ作り方で型物制作をしています。細かい細工などは型から抜いたあと、仕上げ作業として調整することに時間をかけています。この型物制作のやり方が現代にも続く吉向焼の特徴の一つです。
また、吉向焼の特徴は釉薬にもあります。三彩からの技術の緑釉や黄釉、薄青釉、紫釉などの低火度楽釉です。磁器のうえに三彩を載せている水指も制作しています。
その他に、絵付けの作品もあり、それらの筆さばきは見事なものです。二代目一朗との合作も残しています。
また行阿は、弘化、嘉永の頃(一八四八頃)二代目一朗と弟子加藤房造を松代藩の岩下窯の再興に向かわせました。松代焼の中に茶陶作品が残っています。

※参考文献
「茶陶」居波一郎著
吉向焼須坂開窯一五〇年記念 お庭焼き吉向初代展
(須坂市立博物館)


須坂での行阿の役割は藩の財政の立て直しの一翼を担うほどになっていました。
それは隣の松代藩の岩下窯の再興に協力するという仕事にも表れています。
(岩下窯とは、松代藩(長野県 科郡松代町)の代官町に藩士岩下左源太が開いた藩窯のことです。当時「代官町焼き」と呼ばれていましたが、後の松代焼となります。)。

また、行阿が須坂藩の仕事として行ったのが、善光寺の土を用いた香炉の制作です。善光寺参りの土産品として大量生産を行いました。蓋なしの香炉で、白陶に緑釉で三つ葉立葵の紋が描かれたものでした。善光寺参りの人々の手によって全国に須坂の吉向焼きが流布していったものと思われます。
しかし、順調と思われていた製陶事業にも思わぬことで暗雲が現れます。弘化四年(一八四七)、長野で大地震が起きました。善光寺大地震です。続いて大水害が起こり、その多大な被害により藩の財政は決定的に困難を極めました。。高山村の磁土の採石場も被害を受け、焼き物の仕事も窮地にたつことになりました。藩は、さらなる大幅な財政改革の必要に迫られました。

過日、山口県岩国で展示会を行いました。
岩国は初代がお庭焼きとして窯を築いたゆかりの土地ですが、今なお城下の武家の屋敷町としての端整な佇まいを残した魅力的な街並みに触れることができました。
その折、岩国徴古館において初代の作品に出会いました。岩国藩の吉川候に引き立てられていたころの作品です。
一つは、現在ボストン美術館に所蔵されている作品とよく似た茶碗です。モースが岩国を訪れた折に作品を持ち帰ったものとお聞きしました。ろくろ作りの黄釉の茶碗で釘彫りの細かい唐草が地模様に描かれていました。
もうひとつは黒楽の馬上杯の茶碗です。武家茶道を象徴するような珍しい作品でした。


今回は歴史のお話はお休みして窯元の近況をお伝えします。

最近、知人が初代作の大皿を手に入れたと聞き、お宅に伺い、拝見させていただきました。
一見して、私は大変驚きました。その大皿は、七十センチもある巨大な大皿で、江戸時代の薪窯でどのようにして焼かれたものかと、とても興味が引かれました。
土は赤土で、緑の織部調の楽釉が掛かっています。裏には初代の拝領金印の箱書の八角印が押してありました。銘は後から付けたと思われますが「生駒山」とあり、初代が十三から生駒に出る月をみて「松月」と名のったことを、思い起させました。赤土色なのでおそらく浪花の土でしょう。
このような大きな器を焼くには、大きな窯が必要です。楽用の大きめの筒窯を築き、緑釉の流れ方から見て、おそらく立てて焼いたと思われます。少しひびは有りますが、金継ぎされています。
当時の制作現場の有様をいろいろと思い起こさせてくれる逸品だと思われます。

昨年から窯元の地元交野市の教育委員会文化財係からお声がかかり、窯元に残る古い資料や作品などを調査していただいています。その途中経過を踏まえて、このたび交野市立教育文化会館において、「吉向松月窯展」を開催していただくこととなりました。初代からの吉向松月窯の歴史と窯との交流のあった方々との資料や作品を展示いたします。
この展示会の場に、先ほどの「生駒山」の大皿も展示いたします。ちなみに、大皿の箱裏に書かれていた吉向焼のいわれには、私どもに口伝で伝わっている歴史とは年号などの細かな相違がみられます。
古い作品の調査に伴い、まだまだ新しい発見があるということがわかりました。

また、今回、交野市文化財係の方々のご尽力により、大英博物館にも初代の作品が所蔵されているということが判明しました。国内のみならず、海外にもまだ見ぬ初代の作品が所蔵されているということを大変うれしく思います。
皆様に見ていただくことにより、吉向焼研究の一助となれば幸いです。

大阪の古窯 吉向松月窯展
開窯二百二十年の歩み 吉向焼の起こりと文化人
会期 一月三十一日から五月十二日まで
交野市立教育文化会館歴史民俗資料室
交野市倉治六ー九―二十一(交野市立図書館の隣り)
休館日 月、火、祝日 十時から五時


前回お知らせした交野市教育委員会文化財室による「吉向松月窯展」は五月十二日に無事に終わりました。
約千六百人もの来場者が来られ、関心を示していただきました。
今回の展示では、初代からの吉向窯の歴史を年表に従って案内しました。初代における江戸時代の各藩とのつながり、現在の美術館・博物館所蔵作品の一覧などのパネル展示を行いました。
また吉向窯と明治の文化人との交流に有様を示す資料を公開しました。特に菅楯彦、生田花朝の原画に基づいて作られた作品や色紙絵、短冊俳句なども多数展示しました。盛りだくさんの展示内容でした、膨大な資料の整理や調査にご尽力いただいた交野市文化財室の皆様方には感謝申し上げます。
今後も交野市文化財による吉向松月窯の調査、発表続けてくださるそうです。
八月には交野市の教育文化会館にて、当窯で現在も続けている黒楽、赤楽の伝統的な焼成と窯の形式についての展示を行なっていただくことになっています。
是非皆様にご覧いただきたいと思います。

ここで少し歴史の話にもどります。
弘化四年(一八四七)長野を襲った善光寺大地震による大水害は、須坂藩の財政を決定的に困難にしました。財政の改革の必要に迫られ、ついに嘉永六年(一八五三)紅翠軒窯を閉じなければならなくなりました。吉向行阿七〇歳の時のことです。
行阿と二代一郎高義は須坂を去るにあたり、作品の覚書として丹念に写生した陶工画集を弟子の山岸覚三に残しています。また金助、友吉という二人の助手が吉向焼の釉薬調合を詳しく書き写し、後世の為に残していきました。
初代の須坂藩への思いが伝わります。ここで骨を埋める覚悟で藩窯に打ち込んでいた初代にとって須坂を去ることは断腸の想いだったと察せられます。
須坂を去り、江戸に向かった二人は帰路、隣の松代藩に立ち寄りました。松代藩(長野県埴科郡松代町)には代官町に藩士岩下左源太がひらいた藩窯があり、吉向親子の帰途を利して招いています。
真田幸貫のお庭焼とともに松代焼岩下窯では高火度の徳利や皿などの日用品を焼いていました。しばらく指導にあたりました。
須坂においても吉向父子が去ったあと小田切辰之助が、藩士である吉向焼の担当者土屋修蔵と共に窯を引き継ぎ、山岸覚造を含む吉向の弟子たち五人により日用雑器を焼き続けました。須坂焼は磁胎が主で伊万里を写したと言えるものが多くありました。
吉向父子は藩の製陶事業にも貢献して須坂を去っていきました。