吉向松月窯の歴史
また、当時の作品は諸大名にも大いに愛されました。
出身地の大洲藩10代藩主加藤恭済候・周防岩国の吉川経礼候・大和小泉の片桐定信候(石洲流八代遜斎公)・信州須坂藩11代藩主堀直格候・作洲津山(江戸屋敷)・松平確堂候などに引き立てられ、各地の御庭焼きに貢献いたしました。
晩年には将軍家の宗旨でもある浄土宗に帰依し、得度した法名「吉向行阿」で作品作りに勤しみました。
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伊予大洲出身の戸田治兵衛が、京都に出て陶づくりを学び、享和の始め、大阪十三村に窯を築きました。
庭前の老松と生駒山にのぼる月を愛で、「十三軒松月」と号し、作陶に専念しておりました。
時の将軍家の慶事に際し、鶴と亀の食籠を献上いたしましたところ、亀の食籠が非常に気に入られ、「亀甲」即ち「吉に向かう」にちなみ、「吉向」の窯号を賜りました。
幕末から明治にかけて窯を守った四代松月に二子があり、兄、萬三郎が、五世吉向松月を継ぎ、弟実蔵が、五代吉向十三軒を継ぎました。
これより吉向窯は、二つに分かれました。
初代松月が、浪速の地に窯を築いて以来、200年あまり、各代々が種々の技術を伝統に取り入れ、吉向焼として、独自の発展をしております。
平成19年10月、七世松月の次男孝造が九世松月を襲名しました。
それに伴い、八世松月(秀治)が「そう斎」(「そう」は子偏に宗)の名を賜りました。
十三に端を発した窯は、高津(現在の大阪市中央区)、枚方を経て、昭和55年交野市に移転しました。
交野は、奈良時代の陶器、正倉院三彩の陶土の採取地として古文書に残っている、やきものにゆかりの深い地でもあります。
現在、四季折々の自然に包まれた私市月の輪滝のほとりで作陶活動に専念しております。